風越亭半生の日日是好日

長野県南部飯田地方の方言・飯田弁などを取り上げながら、日々の思いを記しています。

風越亭半生の誕生の記(3)

 二〇〇五(平成十七)年の六月二日――六月の最初の土曜日に「飯田ふるさと講談」が開かれて、私は風越亭半生を名乗って出演した。昼夜二回の公演だったのであり、したがって私もまた昼夜二回高座に上がって、飯田弁の漫談としての〈「はあるかぶり」の秘密〉を演じたのであった。

 当日のプログラムにあっては、神田山陽の後を継いで講談協会の会長の任にある神田紅と、預かり弟子の神田陽司という二人の本職の講談が、メインであった。私の出演はというならば、ホンのご愛嬌という扱いであった。それはむろん当然のことである。

 だがしかし、である。私の高座が思っていた以上に好評だったのである。当日の観客のなかには、私のそれが「一番聞き応えがあったよ」と言ってくれた人が何人かあったのである。そこにもまた、むろんのことに少なからぬ阿諛追従はあろうかと思われるのではあるけれども。

 相撲の興行の世界には「江戸の大関より地元の幕下」などといった諺があるけれど、その伝である。神田紅を上回っての出来だったなどというのでは毛頭ない。ただ、客にそれなりの満足感を与えたという点で、私としては自賛してみるのである。

 ともあれ「飯田ふるさと講談」での漫談は、それなりの好評を得て終わり、私は面目を失わずに済んだのであった。その時点では、そう思ってホッとしたのであり、そしてまたそれで終わり――と思っていたのだった。ところが、またまたそれが、新たな繋がりを生み出したのである。まるで菌糸が先へ先へと伸びて行っては、子実体を生ぜしめるが如きにである。

 「飯田ふるさと講談」で以って、飯田弁の漫談をした人がいる――そう聞いてなのか、あるいは新聞を読んでなのか、SBCラジオから出演の依頼が来たのである。SBCラジオに「伊那谷めぐりあい」という番組があって、飯田局がその番組を発信して来ている。その番組を担当しているI・A嬢が、私へのインタビューを打診して来たのであった。

 出演などと言ってみたところで、たいしたことではない。その「伊那谷めぐりあい」という番組は、今でもずっと続いてはいるのだが、週日の午後にわずか数分ばかり放送されているに過ぎないのである。

 その番組は、上伊那郡をも含む伊那谷全体を視野にした番組である。伊那谷で折々に行なわれる行事やイベントの担当者などを中心にして、さらにはいわば〈時の人〉などの許にまでも出向いて、インタビューをして、録音し編集して流すということになっているのだという。

 SBCは信越放送を名乗っているのではあるが、越の国たる新潟県までをカバーしているわけではない。信州信濃の放送局である。そして言うまでもなく県庁は長野市にあり、SBCの本社も長野市にある。長く大きな面積を占める信濃の国にあって、長野市は北部すなわち通称北信にあり、わが飯田は遠く離れて南部すなわち南信にある。

 長野市から見れば、飯田などは同じ長野県内にあっても、ほとんどどうでもいいような地域である。ずっとそういう扱いで来ていたのだし、今もそれは変わらない。それでも信州信濃の内にはあることだし、SBCとしては仕方無しに支局を置いてある――という構図になっている。

 それは、万が一にも何事か生じた際には、取材の拠点が無いというわけにもゆかないし――といった程度の存在理由でしかないだろうと思われるのである。例えばのことに、予想されている東海トラフから大地震が発生したような場合、北信地域の被害は軽微だろうけれど、南信地域は甚大な被害を蒙るだろうことが予測されている。そうした時のためにも、足場は残しておかなくてはなるまい。

 だからして、一日のうちのわずか数分だけを飯田放送局に割り当てて、それで済ませている。放送の機械・機材がいつでも使える状態にあることをチェックするのが、真の目的であり、理由であろう。だが、それもやむを得ないことなのである。

 さりながら、真の存在目的がどうであろうとも、たとえ数分のことではあっても、飯田放送局から送り出す番組があるのである。そうした番組を担当する側にある身としては、連日のように、上伊那下伊那両郡のあちこちを飛び歩いて、つぎつぎとインタビューしなければならないのである。そうしてそれも、少しでもバラエティに富んだものにしたいと思うのは、当然のことなのだ。

 そうしたなかで、私の「飯田ふるさと講談」への出演が、I嬢の耳目に捉えられたのである。しかし、肝腎の私の高座を、彼女は見たわけでもなし、聞いていたのでもなかった。変わったことをした風変わりな人がいる、ひょっとして番組のネタに拾えるかもしれない――という程度の認識だったのだろう。だからして、インタビューの打診のありようは、私からしてみれば、けっして気合の入ったものではなかったのであったのだが。

 むろん、さほど気合の入ったものではなかったとしても、そのようなことは、もとより責めるには値しないことであったのだし、今もそんな思いのなかにいる。それどころか、そうであったればこそ、別なる思いが生まれもしたのだった。私は、風変わりな人間として、一回限りの単なるインタビューで終わらせてしまうのではなく、魅力ある素材を提供し続け得る存在として、アピールしてみようとさえ思うに至ったのであった。

 しかしてその年の六月を皮切りに、SBCラジオにおける「伊那谷めぐりあい」という番組のなかにあって、毎月一度「飯田弁の秘密」と題してのやりとりが、彼女の担当するそれに登場をすることになったのである。

 ところで、そのSBCラジオにインタビューを受けて登場するに際して、いささかの配慮をしたことが、風越亭半生としての、次なる一歩を踏み出すことになったのである。

 「飯田ふるさと講談」に出演した。それで以ってインタビューを受けるとなったら、SBCラジオでも風越亭半生を名乗って受けるのが至当であろう。そうして、一回で終わってしまうのではなくて、その後もいわば連載の如くに続けるのだとなったら、そこでもやはり風越亭半生を名乗り続けるのが当然のことだろう。

 かくて「飯田ふるさと講談」だけで消え去るはずだった風越亭半生の名は、SBCラジオへの出演で残ることになったのだった。かくて始まった「伊那谷めぐりあい」のなかでの「飯田弁の秘密」に、ファンも出来てきて、折々に「聞いているよ」との声が届くようになった。そうなって、私は、若かりし頃のことを思い出したりもしたのである。

 かつて東京に暮らしていた頃のことである。荒川第九中学校の夜間部の教員であったT・Y氏(故人)は、TBSの名物番組の一つである「全国子ども電話相談室」の回答者をも務めていた。その氏から「番組では回答者の補充を考えているんだが、君がやってみないかね」と誘われたのである。

 「全国子ども電話相談室」なる番組は、無着成恭を大看板にしていた番組であり、私も子どものころに聞いていた番組であった。だが、肝腎の看板である氏が年齢を重ね過ぎてしまって来ていて、それゆえに若手を加えて、徐々に変革して行こうと、当時の回答者連に心あたりを探させているということであった。

 T氏は私に声をかけてくれたのだったけれど、しかしながら私が回答者に加わることもなくて終わった。その頃の私はというならば、夜間中学校の日本語学級の仕事に忙殺されていた。それが最大の理由ではあったのだけれど、マスコミに関連した分野に興味も無かった。また夜間中学校の他校の教師のなかに、自分がやりたくて横槍を入れて来た者もいたりして、気乗りがしなかったこともある。

 SBCラジオの出演を重ねているうちに、かつてのそうしたことが思い出されて来たのである。当時の私は若すぎて、少しも事の大きさが掴めていなかったのだ――との思いもまた生じて来た。あの時からラジオに関わっていたならば、今ではそれなりの山坂を登って来ていただろうのに……。イソップ物語のウサギとカメではないけれど、カメの如くにでも歩みを続けて来ていたならば、山頂には遠く届かずとも、今ごろは別なる景観を眺めているやもしれない……。そうしたことまでもが思われてきて、そうなると不思議なもので、いま少し積極的にラジオと関わってみたいと思うような気分にもなって来たのである。もちろんウサギほどの脚力も無いのだから、これから先を全力で駆けようなどとして走れるものではないし、またカメほどの粘り強さなどもないのだけれど……。

 そうした思いが少しずつ発酵するかのように高まって来ていた折節に、私は還暦を迎えた。何か新しいことに手出しをしてみたいとも思いながらいたのでもあったし、また妻からの勧めもあって、およそ二年後に飯田FMで以ってラジオ番組を持つことに至ったのである。こうして「風越亭半生」が歩み始めることになったのであった。

風越亭半生の誕生の記(2)

 首都圏に出て行った飯田高校の卒業生たちが、同窓会を作って毎年晩秋初冬に総会を開いてきている。幹事役が毎年一学年ごとに順送りされて、年番となった学年が総会の運営にあたることになっていて、今でもずっとそのようだ。

 その在京同窓会の総会のセレモニーの一つとして、講演会が行なわれてきている。そうしてその講演会で、講演する者にあってもまた、当該学年の首都圏に在住しているの者のなかから然るべき人物が起用されて、講演をしてきていた。

 しかるに、いずれの学年にあっても、おそらくは人材には事欠かないにしても、それらの人の話は往々にして高邁に過ぎるのが瑕で、聞く側に回る多くの参会者からはずっと不評を受け続けて来ていたらしい。

 二〇〇四(平成十六)年に、当番となった在京の我らの学年(高一九回生)は「講演なんか、もうやめて欲しい」とまでに不評のそれを脱却するべく、世話役の中心にあったS・SならびにS・A両君が相談のうえ、慣例を破って私に講演を依頼して来たのである。

 私はというならば、かつては東京に暮らしていたこともあったけれども、既に在京の身ではない。さのみに非ずして、およそ立身出世からは遠い処に過ごしいる身である。よくぞ白羽の矢を立てたものぞ――と、我が身のことではあるのだが、両君の果断を思うのである。

 その果断が、上首尾となって結実したことは、前回に記したところである。この年の大成功が、翌年以降に影響を与えたのである。

 それまでは首都圏在住の者のなかから講師を選んでいたのだが、私の講演を聞いてからは「郷里の者を呼んで話をしてもらう方がいい」ということになったのだそうな。

 以来、在京の人たちの同窓会に、飯田地方の在住者が出て行っては話をするようになった。言うなれば、先鞭をつけたのである。もっとも、それでもまた、以後そうやって回数を重ね来ているうちに、昨今では、とかく地元にありがちな視野の狭さなどでもって、在京の多くの人たちに不満を齎し始めてもいるように聞き及んでもいるのだが。

 ところで、私の講演が好ましく受け止められた影響は、以後の在京同窓会の講演のありように及ぼしただけではなかった。私個人にもあれこれがあった。しかるにここでは、M・Y氏から声をかけられたことだけを記そう。

 氏はそれまで全く同窓会に出てきたこともなくていたそうだが、その年初めて出席したということだった。講演の題目に惹かれたのが、その動機だったそうだ。

 私は、講演の冒頭で、ほんの土産代わりの話といった趣でもって、飯田弁でのやりとりのコントを披露したのだった。「からい」だとか「ねえま」だのといったことばを散りばめて、まるごと飯田弁でしたそのコントを、氏が気に入ってくれたのである。

 彼は埼玉県の川口市に住んでいながらも、郷里に愛着を寄せていて、毎年六月には飯田でもって「飯田ふるさと講談」(主催・飯田ふるさと講談の会)を開いて来ていた主宰者ともいうべき人物だった。

 台本作家として、郷土の人物や事件を作品に仕立て、講釈師の神田紅などに読み上げをさせてきていた存在であった。そのときは知らず、自己紹介を受けたり後日に聞かされたりして、そうと知ったことではあったのだが。

 その牧内から、講演が終わってからの懇親会の席で、要請を受けたのである。来年の「ふるさと講談」で、今日のコントのような飯田弁でのやり取りなり漫談なりを、幕間にやってもらえないだろうか――と。

 「時間はせいぜいが二十分足らずのことで、神田紅・神田陽司両師匠が一席ずつやって、後半にまた一席ずつ演じるまで休んでもらう間の、その時間つぶしの高座だけれど、どうだろうか」という話だった。

 「ふるさと講談」では、それまでにもそうした幕間には、小学生がメンバーの「土曜笑学校」の落語などでご機嫌伺いをしてきていたのだそうだが、ここいらでちょっと新風を吹き込んでみたい――というのが、氏の意向だった。

 私は演芸が好きで、子どものころからラジオで寄席番組をよく聞いていた。東京に遊学してからは、しばしば寄席に行ったものである。中心はというなら落語だった。

 寄席では、言わば色物として講釈師が出演して講談を聞かせる程度ではあったが、講談も好きだった。今は無くなってしまった浅草の本牧亭に、講談だけを聞きに行ったこともあるくらい。

 そんな演芸好きの私に、思いがけなくも「一席やってみてくれないか」という声がかかったのである。

 こういうことになると、ついついおもしろがるのが、私の性癖である。酔狂にも「わかりました。お引き受けしましょう」と、その場で氏に返事をしたのであった。かくて翌年の「第5回飯田ふるさと講談」において、私が高座に上がることになったのであった。

 前回に述べたように、前年の地元での同期の連中の会(一九会)における講演が引き金になって、東京での在京同窓会の講演を依頼されることになった。今度はその在京同窓会での講演が、牧内からの「ふるさと講談」への出演要請に繋がったのである。

 いずれも「それぞれがそれぞれに、私を活かしてくれようとしてのことなのだ」と私は解して、ありがたく思ったのだったし、今でもそう思っているのである。

 しかるに、たいそうありがたい運びではあったのだけれども、「ふるさと講談」への出演を引き受けて、それゆえにまた新たな問題が生まれても来た。プロの講釈師のあいだに挟まって、土曜笑学校の子どもたちならばいざ知らず、いったい飯田弁で漫談をするにせよ、何をしたものか。それがまさに問題である。

 そればかりではない。前述のように、神田紅・神田陽司が一席ずつやって、後半に再度登場するまでの休憩うちの時間つぶしの高座ではある。さりながら、いかに時間つぶしの素人の高座ではあっても、本名のままに高座に上がるのでは恰好がつかないというものではないか。そうした場にふさわしい何かしらの芸名もあった方がいい。それも考えてみよう、などと。

 その挙句に名乗ることにした芸名が、ほかならぬ「風越亭半生」だったのである。亭号の「風越亭」は説明するまでもなかろう。市の中心部に住まう飯田人たちならば、毎日仰ぎ見ている山に由来しているのだから。

 しかし「半生」の方はというならば、少々の説明が要るだろう。そこには、私なりの多少の屈託を籠めてあるのだ。

 芸人の真似事をするそれが、生半可な振る舞いであることは、自身に充分にわかっているからである。そのうえで、好きな噺家だった三遊亭圓生古今亭志ん朝に脚韻を通わせようと思ったからである。

 それやこれやを勘案したうえで、名乗ることにした「風越亭半生」の芸名だった。

 しかるに私としては、その時の「ふるさと講談」で使うだけのことと思っていたのだったし、よもや後々にまでかく名乗って使おうなどとは、つゆ思ってもいなかったのである。

 それがそうではないことになった。ただにそこにとどまらなくて、やがてほかならぬ「風越亭半生」が歩き出すようになっていくのである。

 そこにもまたありがたく不思議なつながりがあってのことだったのだけれど、それはまた次回に送る。ここでは「第5回ふるさと講談」の高座に上がってした漫談について、概略を記しておこう。

 「はあるかぶり」の秘密――というのが、その時にした漫談の演目名である。この「はあるかぶり」ということばが、共通語で言うところの「ひさしぶり」あるいは「しばらくぶり」といった意味合いであることは、飯田人にはもとより説明など無用である。

 しかしながらである。この「はあるかぶり」ということばについて、改めて考えやってみると、不思議な思いがつきまとうのである。

 東日本では多く「ひさしぶり」を、西日本では「しばらくぶり」をよく使ってきている。そのどちらの表現にしても、根幹となっているところの「ひさしい」「しばらく」といったことばは、その意味合いにあって、いずれも時間的に離れて遠いことをいうことばである。

 だからして、久闊を叙すのに「ひさしぶり」と言おうと、「しばらくぶり」と言おうと、それらには、いささかの不思議も無い。

 しかるに飯田弁にあっての「はあるかぶり」はというならば、こちらは空間的距離的に離れて遠いことをいう「はるかなり」を根幹にしたことばなのである。

 なぜに空間的距離的に離れて遠いことをいう「はるか」という語を、時間的に離れて遠いことをいうのに用いてきたのか――という点に着眼して、論考したものである。

 それをば、歌舞伎の「与話情浮名横櫛」の玄冶店の場における向疵の与三郎の声色などを交えて、一席の漫談に仕立て上げて、飯田市中央公民館の舞台にしつらえられた高座で以って演じたのであった。

 

風越亭半生の誕生の記(1)

 関心を持たれる人は少なかろうけれど、まずは「風越亭半生」なる人物像の誕生について話をしておきたいと思う。飯田弁やFMラジオで番組を持ってお喋りしたことの関わりにあってさえも、私のなかでは、すべてはそこから始まっていると思われるからだ。

 飯田高校で同期だった地元の連中が、毎年同窓会を開いてきている。新制の高校になってから十九回目の卒業だというので、名づけて「一九会」と称して来ている。しかるに私はというならば、日ごろ付き合いなど極力していないから、その一九会の存在すら知らないでいたのだったが、その一九会の存在がそもそもの発端になったのである。

 二〇〇三(平成十五)年の秋のことだった。ある晩、友人のM・M(故人)から電話が来た。

 「来月に一九会の総会があるんだが、君に講演をお願いしたい」というのであった。前記のように、一九会なるものはそれまで耳にしたことのない会であり、ましてや一度も出席したことも無くていた身であったから、寝耳に水の如くだった。いったい如何なることなのかを、彼に尋ねたのである。

 当時は、新しい長野県知事として田中康夫氏が県政に新風をもたらしていた時期である。教育界にも、新風が吹き込んだのである。その風圧を受けて吹き飛ばされたのか追われたのか、自ら椅子を投げ捨てたのか、そうした深奥と経緯は私には不詳だが、何にもせよ教育長を辞職したのが、宮崎和順氏だった。氏は、在学当時の私たち十九回生の、九学級あったうちのE組の担任であった。教員として出世に出世を重ねて、教育長にまで辿り着いていたのである。しかるに、新知事によってお役御免にされてしまったのであった。

 その宮崎先生に、Mが「来年の我々の同窓会で、鬱憤でも裏話でも、何でも話していただければ……」と持ちかけたらしい。氏も腹に据えかねていたらしく〈得たりや応〉と、講演することを快諾してくれたのだそうである。

 そうして翌年の秋口になって、Mが、改めて確認の電話をしてみたところ、宮崎先生からきっぱりと断りを食らったというのである。時間が冷静さをもたらしたのか、別なる損益を考えてのことか、演題を変えてでもダメだという返事をもらってしまった――ということだった。

 それで、急遽、私に代打を打診してきたのである。

 一九会の総会では、例年、講演を聞いてから、懇親会として酒の席を設けてやってきている。もとより懇親会が主目的ではある。そうして講演会だって、例年は仲間内で順番に仕事絡みの話をしていく程度のものだから、さして大袈裟なものではないのだけれど、今年に限ってはそうではない。恰好の講演者を得たと思って、代わりなどまったく考えてもいなかったから、ドタキャンに出会って大慌てしている。今から準備できる者がいなくて、他の者には頼めない。君が引き受けてくれないと、今年は講演は無しになってしまう。なんとか頼む――という話だったのである。

 松澤とは小学校で同級だったし、中学では私が生徒会(私の母校の飯田東中では学友会と称してきているのだが)の会長を務めたときには、彼に清潔整頓部の部長として手伝ってもらいもした間柄である。

 ふだんには付き合いが無いに同然であっても、浅からぬ縁がある。ついぞ出たこととて無い総会だが、一九会の事務局長としての面子を思い遣って、そういうことならばとて講演を引き受けることになった。

 代打だから適当にやっつけておこうなどという気分は全く無かったのだけれど、その総会で私のした話は、残念ながら地元の同期の連中には興味を引く話ではなかったようだ。とまれかくまれ、それはそれで済んだのである。

 ところが、私が地元の同期生の総会で、一風変った講演をしたという話が、東京に飛び火したらしい。

 翌二〇〇四(平成十六)年のことであった。首都圏に出て行った飯田高校の卒業生の人たちが、在京同窓会を作っていて、そこでも例年親睦の総会を持っている。その会にあっても、講演会があって、その後に宴会という流れは軌を一にしているのだが、その講演会の講師として私が白羽の矢を立てられたのである。

 こちらは代打などではなくて、まさに白羽の矢を立てられたのだけれども、しかし、だからといって私が特段な振舞いを重ねて来ていたわけではなかった。やむを得ず私に目を向けざるを得なかったような背景が、やはり向こうにはあったのであり、それがまた実におもしろい事柄なので、敢えて記し置こうと思う。

 在京同窓会の総会は、その幹事役・運営の世話役を、年番として卒業年度で順送りにしてやって来ているとのことであった。そうして、講演会もまた、当番にあたった学年から講師を出して、回を重ねてきていたそうだ。

 自分たちの番だとなれば、どの学年にあっても、自らの仲間うちの出世頭と思しき人物を講演者に抜擢しようとなるのは、当然至極な思いであろうし、また実際にもそうした流れが続いてきていたようだ。だから、厚生労働省の高官となって狂牛病対策の陣頭指揮を執ってきた人の話だとか、アフガニスタンNPO活動に貢献してきた人の話だとかいったような講演が、行なわれてきていたというのである。

 当該学年が誇るべき人物となったら、首都圏で活躍している人はどの学年にも少なからずいるから、講師に事欠くことは無かろう。だから毎年いい話をしてくれたのだという。なかには「これは東大の一年生にしている話です」といって、誇らしげに話した御仁もいたそうである。たいそう立派であり、その御仁のみならず、当該学年の人たちもさぞや鼻が高かったことだろう。

 さりながらである。聞かされる側に回ってみれば、どの話も誰の話も、みんな良過ぎてしまって「もうイイ」ということになってしまうのが通例だったようだ。殊に年配の出席者にあっては、狂牛病の話やアフガニスタンの話に限らない。誰の話も彼の話も、ほとんど興味を齎さないうえに、偉い人物がここぞと気負って話をするからだろう、みんな難しくありすぎて、不評がこのうえない状況にあったらしい。

 「もう講演なんかは、ヤメにしてくれ。早い時間から懇親会にして欲しい」という声が、澎湃として沸き起こって来ていた――というのである。

 そんななかで、平成十六年度に、私たちの年度の十九回生が年番になった。在京の十九回生の中心となって動いていたのがS・S(故人)であり、そのサポート役がS・A両君だった。彼らはそうした声を多々聞かされていた。

 だがしかし、自分たちの年番のときに講演会を無くしてしまったのでは、いかにも面目が失われてしまう。悩んだ挙句に、在京の身でない私を引っ張り出して、故郷である飯田の方言の話でもさせてみたらどうか――ということになったようだ。

 「立身出世をした者は、我々の学年にだっている。けれども、おもしろい話でなかったら、またもや不評を買うことだろう。彼は立身出世には背を向けて生きてきていて、だからそうした意味では対極にあるのだが、話はおもしろい。彼に話をしてもらおうじゃないか」ということにでもなったのだろう。私がおもしろい話が好きだから、そうした類の話を、上京して彼らに会った折節にしてきていたのだったのだけれど、その印象がもたらした帰趨だった。

 かくて私にお呼びがかかったのである。

 総会当日の宴会の前のプログラムは、私の講演と、中学の同級生だったK・Y君の尺八演奏との、二本立てであった。

 私の講演は「飯田弁の語源を尋ねて……」という演題であった。Sが「こういう演題にしておいたから」といって、掲げたものだった。私の意向を聞きもせずにしたことではあったのだが、日ごろの私の話から彼なりに判断したことではあり、また彼が先に立ってしていることであったから、私としてはその演題に沿って話をすることを応諾した。

 しかるに私の講演は、自ら言うのもおこがましいことだけれど、大成功だった。例年は二百人がせいぜいという参加者が、この年は四百人を超えた。演題に惹かれたのだろう――というのが、総括した仲間たちの見解だった。用意の椅子が足りず、慌てて追加出ししてもなお足りず、立ち見ならぬ立ち聞き者が少なからず出てきてしまったのだった。幹事役両君のプロデュースが、まず功を奏したのである。

 そうして、さらに私の話が進みゆくうちに、私語がぱったりと消えて、皆が聞き入っているさまが、壇上からよく見えた。「なかには涙をぬぐっている人もいたよ」と、これは下島の報告である。遠い子どもの日のころを思い出したのだろうか。それとも祖父母などの姿を想起したのだろうか。何にもせよ「これまでの講演会で、涙を流しながら聞いているような人の姿を見たことなど無い」――との彼の言だった。

 泣かせればよいというものでは、むろんない。しかし、例年の倍にも及んだ聴衆がそれなりに満足してくれたことは、まちがいなく事実だったと、私は思っている。

 数年後に今は亡きS君と会った際に、彼は「いまだにあの時の君の講演が良かったと、語り草になっているよ」と教えてくれた。語り草になっているほどならば、自画自賛しても憚るところはあるまい。

 証はそればかりではない。この時の講演が上首尾だったればこそ、瓢箪から駒が飛び出したかの如き成り行きで、翌年になって「風越亭半生」が誕生することになったのである。

風越亭半生からブログ開設のご挨拶

 いやんばいでございます。風越亭半生でございます。 

 飯田地方の方言すなわち飯田弁を(とりあえずの)看板に掲げて、地元のFMラジオで番組を持ってあれやこれやをおしゃべりして来ました。今はまた地元紙「南信州新聞」に連載中でございます。このたび、このような形でブログを始めてみました。

 ご意見やご感想などをいただければと思います。またご異見やご教示などもいただければ幸いございます。