風越亭半生の日日是好日

長野県南部飯田地方の方言・飯田弁などを取り上げながら、日々の思いを記しています。

風越亭半生の誕生の記(2)

 首都圏に出て行った飯田高校の卒業生たちが、同窓会を作って毎年晩秋初冬に総会を開いてきている。幹事役が毎年一学年ごとに順送りされて、年番となった学年が総会の運営にあたることになっていて、今でもずっとそのようだ。

 その在京同窓会の総会のセレモニーの一つとして、講演会が行なわれてきている。そうしてその講演会で、講演する者にあってもまた、当該学年の首都圏に在住しているの者のなかから然るべき人物が起用されて、講演をしてきていた。

 しかるに、いずれの学年にあっても、おそらくは人材には事欠かないにしても、それらの人の話は往々にして高邁に過ぎるのが瑕で、聞く側に回る多くの参会者からはずっと不評を受け続けて来ていたらしい。

 二〇〇四(平成十六)年に、当番となった在京の我らの学年(高一九回生)は「講演なんか、もうやめて欲しい」とまでに不評のそれを脱却するべく、世話役の中心にあったS・SならびにS・A両君が相談のうえ、慣例を破って私に講演を依頼して来たのである。

 私はというならば、かつては東京に暮らしていたこともあったけれども、既に在京の身ではない。さのみに非ずして、およそ立身出世からは遠い処に過ごしいる身である。よくぞ白羽の矢を立てたものぞ――と、我が身のことではあるのだが、両君の果断を思うのである。

 その果断が、上首尾となって結実したことは、前回に記したところである。この年の大成功が、翌年以降に影響を与えたのである。

 それまでは首都圏在住の者のなかから講師を選んでいたのだが、私の講演を聞いてからは「郷里の者を呼んで話をしてもらう方がいい」ということになったのだそうな。

 以来、在京の人たちの同窓会に、飯田地方の在住者が出て行っては話をするようになった。言うなれば、先鞭をつけたのである。もっとも、それでもまた、以後そうやって回数を重ね来ているうちに、昨今では、とかく地元にありがちな視野の狭さなどでもって、在京の多くの人たちに不満を齎し始めてもいるように聞き及んでもいるのだが。

 ところで、私の講演が好ましく受け止められた影響は、以後の在京同窓会の講演のありように及ぼしただけではなかった。私個人にもあれこれがあった。しかるにここでは、M・Y氏から声をかけられたことだけを記そう。

 氏はそれまで全く同窓会に出てきたこともなくていたそうだが、その年初めて出席したということだった。講演の題目に惹かれたのが、その動機だったそうだ。

 私は、講演の冒頭で、ほんの土産代わりの話といった趣でもって、飯田弁でのやりとりのコントを披露したのだった。「からい」だとか「ねえま」だのといったことばを散りばめて、まるごと飯田弁でしたそのコントを、氏が気に入ってくれたのである。

 彼は埼玉県の川口市に住んでいながらも、郷里に愛着を寄せていて、毎年六月には飯田でもって「飯田ふるさと講談」(主催・飯田ふるさと講談の会)を開いて来ていた主宰者ともいうべき人物だった。

 台本作家として、郷土の人物や事件を作品に仕立て、講釈師の神田紅などに読み上げをさせてきていた存在であった。そのときは知らず、自己紹介を受けたり後日に聞かされたりして、そうと知ったことではあったのだが。

 その牧内から、講演が終わってからの懇親会の席で、要請を受けたのである。来年の「ふるさと講談」で、今日のコントのような飯田弁でのやり取りなり漫談なりを、幕間にやってもらえないだろうか――と。

 「時間はせいぜいが二十分足らずのことで、神田紅・神田陽司両師匠が一席ずつやって、後半にまた一席ずつ演じるまで休んでもらう間の、その時間つぶしの高座だけれど、どうだろうか」という話だった。

 「ふるさと講談」では、それまでにもそうした幕間には、小学生がメンバーの「土曜笑学校」の落語などでご機嫌伺いをしてきていたのだそうだが、ここいらでちょっと新風を吹き込んでみたい――というのが、氏の意向だった。

 私は演芸が好きで、子どものころからラジオで寄席番組をよく聞いていた。東京に遊学してからは、しばしば寄席に行ったものである。中心はというなら落語だった。

 寄席では、言わば色物として講釈師が出演して講談を聞かせる程度ではあったが、講談も好きだった。今は無くなってしまった浅草の本牧亭に、講談だけを聞きに行ったこともあるくらい。

 そんな演芸好きの私に、思いがけなくも「一席やってみてくれないか」という声がかかったのである。

 こういうことになると、ついついおもしろがるのが、私の性癖である。酔狂にも「わかりました。お引き受けしましょう」と、その場で氏に返事をしたのであった。かくて翌年の「第5回飯田ふるさと講談」において、私が高座に上がることになったのであった。

 前回に述べたように、前年の地元での同期の連中の会(一九会)における講演が引き金になって、東京での在京同窓会の講演を依頼されることになった。今度はその在京同窓会での講演が、牧内からの「ふるさと講談」への出演要請に繋がったのである。

 いずれも「それぞれがそれぞれに、私を活かしてくれようとしてのことなのだ」と私は解して、ありがたく思ったのだったし、今でもそう思っているのである。

 しかるに、たいそうありがたい運びではあったのだけれども、「ふるさと講談」への出演を引き受けて、それゆえにまた新たな問題が生まれても来た。プロの講釈師のあいだに挟まって、土曜笑学校の子どもたちならばいざ知らず、いったい飯田弁で漫談をするにせよ、何をしたものか。それがまさに問題である。

 そればかりではない。前述のように、神田紅・神田陽司が一席ずつやって、後半に再度登場するまでの休憩うちの時間つぶしの高座ではある。さりながら、いかに時間つぶしの素人の高座ではあっても、本名のままに高座に上がるのでは恰好がつかないというものではないか。そうした場にふさわしい何かしらの芸名もあった方がいい。それも考えてみよう、などと。

 その挙句に名乗ることにした芸名が、ほかならぬ「風越亭半生」だったのである。亭号の「風越亭」は説明するまでもなかろう。市の中心部に住まう飯田人たちならば、毎日仰ぎ見ている山に由来しているのだから。

 しかし「半生」の方はというならば、少々の説明が要るだろう。そこには、私なりの多少の屈託を籠めてあるのだ。

 芸人の真似事をするそれが、生半可な振る舞いであることは、自身に充分にわかっているからである。そのうえで、好きな噺家だった三遊亭圓生古今亭志ん朝に脚韻を通わせようと思ったからである。

 それやこれやを勘案したうえで、名乗ることにした「風越亭半生」の芸名だった。

 しかるに私としては、その時の「ふるさと講談」で使うだけのことと思っていたのだったし、よもや後々にまでかく名乗って使おうなどとは、つゆ思ってもいなかったのである。

 それがそうではないことになった。ただにそこにとどまらなくて、やがてほかならぬ「風越亭半生」が歩き出すようになっていくのである。

 そこにもまたありがたく不思議なつながりがあってのことだったのだけれど、それはまた次回に送る。ここでは「第5回ふるさと講談」の高座に上がってした漫談について、概略を記しておこう。

 「はあるかぶり」の秘密――というのが、その時にした漫談の演目名である。この「はあるかぶり」ということばが、共通語で言うところの「ひさしぶり」あるいは「しばらくぶり」といった意味合いであることは、飯田人にはもとより説明など無用である。

 しかしながらである。この「はあるかぶり」ということばについて、改めて考えやってみると、不思議な思いがつきまとうのである。

 東日本では多く「ひさしぶり」を、西日本では「しばらくぶり」をよく使ってきている。そのどちらの表現にしても、根幹となっているところの「ひさしい」「しばらく」といったことばは、その意味合いにあって、いずれも時間的に離れて遠いことをいうことばである。

 だからして、久闊を叙すのに「ひさしぶり」と言おうと、「しばらくぶり」と言おうと、それらには、いささかの不思議も無い。

 しかるに飯田弁にあっての「はあるかぶり」はというならば、こちらは空間的距離的に離れて遠いことをいう「はるかなり」を根幹にしたことばなのである。

 なぜに空間的距離的に離れて遠いことをいう「はるか」という語を、時間的に離れて遠いことをいうのに用いてきたのか――という点に着眼して、論考したものである。

 それをば、歌舞伎の「与話情浮名横櫛」の玄冶店の場における向疵の与三郎の声色などを交えて、一席の漫談に仕立て上げて、飯田市中央公民館の舞台にしつらえられた高座で以って演じたのであった。