風越亭半生の日日是好日

長野県南部飯田地方の方言・飯田弁などを取り上げながら、日々の思いを記しています。

風越亭半生の誕生の記(3)

 二〇〇五(平成十七)年の六月二日――六月の最初の土曜日に「飯田ふるさと講談」が開かれて、私は風越亭半生を名乗って出演した。昼夜二回の公演だったのであり、したがって私もまた昼夜二回高座に上がって、飯田弁の漫談としての〈「はあるかぶり」の秘密〉を演じたのであった。

 当日のプログラムにあっては、神田山陽の後を継いで講談協会の会長の任にある神田紅と、預かり弟子の神田陽司という二人の本職の講談が、メインであった。私の出演はというならば、ホンのご愛嬌という扱いであった。それはむろん当然のことである。

 だがしかし、である。私の高座が思っていた以上に好評だったのである。当日の観客のなかには、私のそれが「一番聞き応えがあったよ」と言ってくれた人が何人かあったのである。そこにもまた、むろんのことに少なからぬ阿諛追従はあろうかと思われるのではあるけれども。

 相撲の興行の世界には「江戸の大関より地元の幕下」などといった諺があるけれど、その伝である。神田紅を上回っての出来だったなどというのでは毛頭ない。ただ、客にそれなりの満足感を与えたという点で、私としては自賛してみるのである。

 ともあれ「飯田ふるさと講談」での漫談は、それなりの好評を得て終わり、私は面目を失わずに済んだのであった。その時点では、そう思ってホッとしたのであり、そしてまたそれで終わり――と思っていたのだった。ところが、またまたそれが、新たな繋がりを生み出したのである。まるで菌糸が先へ先へと伸びて行っては、子実体を生ぜしめるが如きにである。

 「飯田ふるさと講談」で以って、飯田弁の漫談をした人がいる――そう聞いてなのか、あるいは新聞を読んでなのか、SBCラジオから出演の依頼が来たのである。SBCラジオに「伊那谷めぐりあい」という番組があって、飯田局がその番組を発信して来ている。その番組を担当しているI・A嬢が、私へのインタビューを打診して来たのであった。

 出演などと言ってみたところで、たいしたことではない。その「伊那谷めぐりあい」という番組は、今でもずっと続いてはいるのだが、週日の午後にわずか数分ばかり放送されているに過ぎないのである。

 その番組は、上伊那郡をも含む伊那谷全体を視野にした番組である。伊那谷で折々に行なわれる行事やイベントの担当者などを中心にして、さらにはいわば〈時の人〉などの許にまでも出向いて、インタビューをして、録音し編集して流すということになっているのだという。

 SBCは信越放送を名乗っているのではあるが、越の国たる新潟県までをカバーしているわけではない。信州信濃の放送局である。そして言うまでもなく県庁は長野市にあり、SBCの本社も長野市にある。長く大きな面積を占める信濃の国にあって、長野市は北部すなわち通称北信にあり、わが飯田は遠く離れて南部すなわち南信にある。

 長野市から見れば、飯田などは同じ長野県内にあっても、ほとんどどうでもいいような地域である。ずっとそういう扱いで来ていたのだし、今もそれは変わらない。それでも信州信濃の内にはあることだし、SBCとしては仕方無しに支局を置いてある――という構図になっている。

 それは、万が一にも何事か生じた際には、取材の拠点が無いというわけにもゆかないし――といった程度の存在理由でしかないだろうと思われるのである。例えばのことに、予想されている東海トラフから大地震が発生したような場合、北信地域の被害は軽微だろうけれど、南信地域は甚大な被害を蒙るだろうことが予測されている。そうした時のためにも、足場は残しておかなくてはなるまい。

 だからして、一日のうちのわずか数分だけを飯田放送局に割り当てて、それで済ませている。放送の機械・機材がいつでも使える状態にあることをチェックするのが、真の目的であり、理由であろう。だが、それもやむを得ないことなのである。

 さりながら、真の存在目的がどうであろうとも、たとえ数分のことではあっても、飯田放送局から送り出す番組があるのである。そうした番組を担当する側にある身としては、連日のように、上伊那下伊那両郡のあちこちを飛び歩いて、つぎつぎとインタビューしなければならないのである。そうしてそれも、少しでもバラエティに富んだものにしたいと思うのは、当然のことなのだ。

 そうしたなかで、私の「飯田ふるさと講談」への出演が、I嬢の耳目に捉えられたのである。しかし、肝腎の私の高座を、彼女は見たわけでもなし、聞いていたのでもなかった。変わったことをした風変わりな人がいる、ひょっとして番組のネタに拾えるかもしれない――という程度の認識だったのだろう。だからして、インタビューの打診のありようは、私からしてみれば、けっして気合の入ったものではなかったのであったのだが。

 むろん、さほど気合の入ったものではなかったとしても、そのようなことは、もとより責めるには値しないことであったのだし、今もそんな思いのなかにいる。それどころか、そうであったればこそ、別なる思いが生まれもしたのだった。私は、風変わりな人間として、一回限りの単なるインタビューで終わらせてしまうのではなく、魅力ある素材を提供し続け得る存在として、アピールしてみようとさえ思うに至ったのであった。

 しかしてその年の六月を皮切りに、SBCラジオにおける「伊那谷めぐりあい」という番組のなかにあって、毎月一度「飯田弁の秘密」と題してのやりとりが、彼女の担当するそれに登場をすることになったのである。

 ところで、そのSBCラジオにインタビューを受けて登場するに際して、いささかの配慮をしたことが、風越亭半生としての、次なる一歩を踏み出すことになったのである。

 「飯田ふるさと講談」に出演した。それで以ってインタビューを受けるとなったら、SBCラジオでも風越亭半生を名乗って受けるのが至当であろう。そうして、一回で終わってしまうのではなくて、その後もいわば連載の如くに続けるのだとなったら、そこでもやはり風越亭半生を名乗り続けるのが当然のことだろう。

 かくて「飯田ふるさと講談」だけで消え去るはずだった風越亭半生の名は、SBCラジオへの出演で残ることになったのだった。かくて始まった「伊那谷めぐりあい」のなかでの「飯田弁の秘密」に、ファンも出来てきて、折々に「聞いているよ」との声が届くようになった。そうなって、私は、若かりし頃のことを思い出したりもしたのである。

 かつて東京に暮らしていた頃のことである。荒川第九中学校の夜間部の教員であったT・Y氏(故人)は、TBSの名物番組の一つである「全国子ども電話相談室」の回答者をも務めていた。その氏から「番組では回答者の補充を考えているんだが、君がやってみないかね」と誘われたのである。

 「全国子ども電話相談室」なる番組は、無着成恭を大看板にしていた番組であり、私も子どものころに聞いていた番組であった。だが、肝腎の看板である氏が年齢を重ね過ぎてしまって来ていて、それゆえに若手を加えて、徐々に変革して行こうと、当時の回答者連に心あたりを探させているということであった。

 T氏は私に声をかけてくれたのだったけれど、しかしながら私が回答者に加わることもなくて終わった。その頃の私はというならば、夜間中学校の日本語学級の仕事に忙殺されていた。それが最大の理由ではあったのだけれど、マスコミに関連した分野に興味も無かった。また夜間中学校の他校の教師のなかに、自分がやりたくて横槍を入れて来た者もいたりして、気乗りがしなかったこともある。

 SBCラジオの出演を重ねているうちに、かつてのそうしたことが思い出されて来たのである。当時の私は若すぎて、少しも事の大きさが掴めていなかったのだ――との思いもまた生じて来た。あの時からラジオに関わっていたならば、今ではそれなりの山坂を登って来ていただろうのに……。イソップ物語のウサギとカメではないけれど、カメの如くにでも歩みを続けて来ていたならば、山頂には遠く届かずとも、今ごろは別なる景観を眺めているやもしれない……。そうしたことまでもが思われてきて、そうなると不思議なもので、いま少し積極的にラジオと関わってみたいと思うような気分にもなって来たのである。もちろんウサギほどの脚力も無いのだから、これから先を全力で駆けようなどとして走れるものではないし、またカメほどの粘り強さなどもないのだけれど……。

 そうした思いが少しずつ発酵するかのように高まって来ていた折節に、私は還暦を迎えた。何か新しいことに手出しをしてみたいとも思いながらいたのでもあったし、また妻からの勧めもあって、およそ二年後に飯田FMで以ってラジオ番組を持つことに至ったのである。こうして「風越亭半生」が歩み始めることになったのであった。