風越亭半生の日日是好日

長野県南部飯田地方の方言・飯田弁などを取り上げながら、日々の思いを記しています。

風越亭半生の誕生の記(1)

 関心を持たれる人は少なかろうけれど、まずは「風越亭半生」なる人物像の誕生について話をしておきたいと思う。飯田弁やFMラジオで番組を持ってお喋りしたことの関わりにあってさえも、私のなかでは、すべてはそこから始まっていると思われるからだ。

 飯田高校で同期だった地元の連中が、毎年同窓会を開いてきている。新制の高校になってから十九回目の卒業だというので、名づけて「一九会」と称して来ている。しかるに私はというならば、日ごろ付き合いなど極力していないから、その一九会の存在すら知らないでいたのだったが、その一九会の存在がそもそもの発端になったのである。

 二〇〇三(平成十五)年の秋のことだった。ある晩、友人のM・M(故人)から電話が来た。

 「来月に一九会の総会があるんだが、君に講演をお願いしたい」というのであった。前記のように、一九会なるものはそれまで耳にしたことのない会であり、ましてや一度も出席したことも無くていた身であったから、寝耳に水の如くだった。いったい如何なることなのかを、彼に尋ねたのである。

 当時は、新しい長野県知事として田中康夫氏が県政に新風をもたらしていた時期である。教育界にも、新風が吹き込んだのである。その風圧を受けて吹き飛ばされたのか追われたのか、自ら椅子を投げ捨てたのか、そうした深奥と経緯は私には不詳だが、何にもせよ教育長を辞職したのが、宮崎和順氏だった。氏は、在学当時の私たち十九回生の、九学級あったうちのE組の担任であった。教員として出世に出世を重ねて、教育長にまで辿り着いていたのである。しかるに、新知事によってお役御免にされてしまったのであった。

 その宮崎先生に、Mが「来年の我々の同窓会で、鬱憤でも裏話でも、何でも話していただければ……」と持ちかけたらしい。氏も腹に据えかねていたらしく〈得たりや応〉と、講演することを快諾してくれたのだそうである。

 そうして翌年の秋口になって、Mが、改めて確認の電話をしてみたところ、宮崎先生からきっぱりと断りを食らったというのである。時間が冷静さをもたらしたのか、別なる損益を考えてのことか、演題を変えてでもダメだという返事をもらってしまった――ということだった。

 それで、急遽、私に代打を打診してきたのである。

 一九会の総会では、例年、講演を聞いてから、懇親会として酒の席を設けてやってきている。もとより懇親会が主目的ではある。そうして講演会だって、例年は仲間内で順番に仕事絡みの話をしていく程度のものだから、さして大袈裟なものではないのだけれど、今年に限ってはそうではない。恰好の講演者を得たと思って、代わりなどまったく考えてもいなかったから、ドタキャンに出会って大慌てしている。今から準備できる者がいなくて、他の者には頼めない。君が引き受けてくれないと、今年は講演は無しになってしまう。なんとか頼む――という話だったのである。

 松澤とは小学校で同級だったし、中学では私が生徒会(私の母校の飯田東中では学友会と称してきているのだが)の会長を務めたときには、彼に清潔整頓部の部長として手伝ってもらいもした間柄である。

 ふだんには付き合いが無いに同然であっても、浅からぬ縁がある。ついぞ出たこととて無い総会だが、一九会の事務局長としての面子を思い遣って、そういうことならばとて講演を引き受けることになった。

 代打だから適当にやっつけておこうなどという気分は全く無かったのだけれど、その総会で私のした話は、残念ながら地元の同期の連中には興味を引く話ではなかったようだ。とまれかくまれ、それはそれで済んだのである。

 ところが、私が地元の同期生の総会で、一風変った講演をしたという話が、東京に飛び火したらしい。

 翌二〇〇四(平成十六)年のことであった。首都圏に出て行った飯田高校の卒業生の人たちが、在京同窓会を作っていて、そこでも例年親睦の総会を持っている。その会にあっても、講演会があって、その後に宴会という流れは軌を一にしているのだが、その講演会の講師として私が白羽の矢を立てられたのである。

 こちらは代打などではなくて、まさに白羽の矢を立てられたのだけれども、しかし、だからといって私が特段な振舞いを重ねて来ていたわけではなかった。やむを得ず私に目を向けざるを得なかったような背景が、やはり向こうにはあったのであり、それがまた実におもしろい事柄なので、敢えて記し置こうと思う。

 在京同窓会の総会は、その幹事役・運営の世話役を、年番として卒業年度で順送りにしてやって来ているとのことであった。そうして、講演会もまた、当番にあたった学年から講師を出して、回を重ねてきていたそうだ。

 自分たちの番だとなれば、どの学年にあっても、自らの仲間うちの出世頭と思しき人物を講演者に抜擢しようとなるのは、当然至極な思いであろうし、また実際にもそうした流れが続いてきていたようだ。だから、厚生労働省の高官となって狂牛病対策の陣頭指揮を執ってきた人の話だとか、アフガニスタンNPO活動に貢献してきた人の話だとかいったような講演が、行なわれてきていたというのである。

 当該学年が誇るべき人物となったら、首都圏で活躍している人はどの学年にも少なからずいるから、講師に事欠くことは無かろう。だから毎年いい話をしてくれたのだという。なかには「これは東大の一年生にしている話です」といって、誇らしげに話した御仁もいたそうである。たいそう立派であり、その御仁のみならず、当該学年の人たちもさぞや鼻が高かったことだろう。

 さりながらである。聞かされる側に回ってみれば、どの話も誰の話も、みんな良過ぎてしまって「もうイイ」ということになってしまうのが通例だったようだ。殊に年配の出席者にあっては、狂牛病の話やアフガニスタンの話に限らない。誰の話も彼の話も、ほとんど興味を齎さないうえに、偉い人物がここぞと気負って話をするからだろう、みんな難しくありすぎて、不評がこのうえない状況にあったらしい。

 「もう講演なんかは、ヤメにしてくれ。早い時間から懇親会にして欲しい」という声が、澎湃として沸き起こって来ていた――というのである。

 そんななかで、平成十六年度に、私たちの年度の十九回生が年番になった。在京の十九回生の中心となって動いていたのがS・S(故人)であり、そのサポート役がS・A両君だった。彼らはそうした声を多々聞かされていた。

 だがしかし、自分たちの年番のときに講演会を無くしてしまったのでは、いかにも面目が失われてしまう。悩んだ挙句に、在京の身でない私を引っ張り出して、故郷である飯田の方言の話でもさせてみたらどうか――ということになったようだ。

 「立身出世をした者は、我々の学年にだっている。けれども、おもしろい話でなかったら、またもや不評を買うことだろう。彼は立身出世には背を向けて生きてきていて、だからそうした意味では対極にあるのだが、話はおもしろい。彼に話をしてもらおうじゃないか」ということにでもなったのだろう。私がおもしろい話が好きだから、そうした類の話を、上京して彼らに会った折節にしてきていたのだったのだけれど、その印象がもたらした帰趨だった。

 かくて私にお呼びがかかったのである。

 総会当日の宴会の前のプログラムは、私の講演と、中学の同級生だったK・Y君の尺八演奏との、二本立てであった。

 私の講演は「飯田弁の語源を尋ねて……」という演題であった。Sが「こういう演題にしておいたから」といって、掲げたものだった。私の意向を聞きもせずにしたことではあったのだが、日ごろの私の話から彼なりに判断したことではあり、また彼が先に立ってしていることであったから、私としてはその演題に沿って話をすることを応諾した。

 しかるに私の講演は、自ら言うのもおこがましいことだけれど、大成功だった。例年は二百人がせいぜいという参加者が、この年は四百人を超えた。演題に惹かれたのだろう――というのが、総括した仲間たちの見解だった。用意の椅子が足りず、慌てて追加出ししてもなお足りず、立ち見ならぬ立ち聞き者が少なからず出てきてしまったのだった。幹事役両君のプロデュースが、まず功を奏したのである。

 そうして、さらに私の話が進みゆくうちに、私語がぱったりと消えて、皆が聞き入っているさまが、壇上からよく見えた。「なかには涙をぬぐっている人もいたよ」と、これは下島の報告である。遠い子どもの日のころを思い出したのだろうか。それとも祖父母などの姿を想起したのだろうか。何にもせよ「これまでの講演会で、涙を流しながら聞いているような人の姿を見たことなど無い」――との彼の言だった。

 泣かせればよいというものでは、むろんない。しかし、例年の倍にも及んだ聴衆がそれなりに満足してくれたことは、まちがいなく事実だったと、私は思っている。

 数年後に今は亡きS君と会った際に、彼は「いまだにあの時の君の講演が良かったと、語り草になっているよ」と教えてくれた。語り草になっているほどならば、自画自賛しても憚るところはあるまい。

 証はそればかりではない。この時の講演が上首尾だったればこそ、瓢箪から駒が飛び出したかの如き成り行きで、翌年になって「風越亭半生」が誕生することになったのである。